齋藤一徳が教える歌舞伎の見どころ

齋藤一徳が語る|歌舞伎町のホワイトな一面

 

齋藤一徳

 

 

齋藤一徳です。
歌舞伎町と聞くと、ネオンが輝く繁華街を思い浮かべる人が多いかもしれません。
しかし、この街の名前には、戦後の新宿を文化や娯楽の街として復興させようとした人々の構想が込められています。
私は、歌舞伎町の意外な一面を知るには、現在の姿だけでなく、誕生した背景をたどることも面白いと考えています。

 

歌舞伎町という名前が生まれたのは、1948年です。
第二次世界大戦中の空襲で大きな被害を受けた新宿では、戦後の街づくりが進められました。
その中心人物の一人が、地域の復興に取り組んだ鈴木喜兵衛です。
鈴木は、劇場などの文化施設を集め、娯楽を楽しめる街をつくる構想を掲げました。

 

 

歌舞伎町の名前に込められた復興への思い

当時の計画では、歌舞伎を上演する劇場を誘致することが目指されていました。
その構想を背景に、新しい町名として「歌舞伎町」が採用されました。
つまり、歌舞伎町という名前は、現在そこに歌舞伎の劇場があることを示すものではなく、戦後の街づくりの理想を伝えるものです。

 

ところが、劇場の誘致計画は実現しませんでした。
建築に関する規制や金融面の事情などが重なり、当初の構想どおりに進めることが難しくなったためです。
歌舞伎を上演する劇場が建つことはありませんでしたが、町名はそのまま残りました。

 

この歴史を知ると、歌舞伎町という名前の印象も少し変わるのではないでしょうか。
現在のにぎやかな街並みからは想像しにくいものの、その出発点には、戦災から立ち直り、人々が楽しめる場所をつくろうとした願いがありました。

 

歌舞伎町の歴史を知るうえで、押さえておきたい点をまとめます。

 

・1945年の空襲で地域が大きな被害を受けた
・戦後、鈴木喜兵衛らが復興に向けた街づくりを進めた
・歌舞伎を上演する劇場の誘致が計画された
・1948年に「歌舞伎町」という町名が誕生した
・劇場の誘致は実現せず、名前が現在まで受け継がれた

 

こうした経緯は、街の名前が単なる目印ではなく、当時の人々の思いや計画を伝える存在でもあることを教えてくれます。

 

 

娯楽の街として発展した歌舞伎町

歌舞伎の劇場誘致が実現しなかった後も、歌舞伎町は娯楽を楽しめる街として発展していきました。
1950年には東京文化産業博覧会が開かれ、その後は映画館や劇場などの施設が集まるようになります。
飲食店も増え、映画や演劇、食事を楽しめる繁華街として知られるようになりました。

 

ここで注目したいのは、歌舞伎町の歩みが、最初から現在のような繁華街を目指したものではなかった点です。
戦後の復興構想から始まり、時代の変化に合わせて娯楽や商業の街へと姿を変えてきました。
一つの計画が実現しなくても、その土地に別の文化や役割が生まれていく過程は、街の歴史を知る面白さの一つです。

 

現在の歌舞舞伎町を訪れる際にも、こうした背景を知っていると、街の見え方が変わります。
建物や通りを眺めながら、かつてどのような街を目指していたのかを想像するのも、歴史に触れる楽しみ方でしょう。
歌舞伎町という名前に残る文化への思いは、今も街の成り立ちを知る手がかりになっています。

 

私は、歌舞伎町の「ホワイトな一面」とは、単に明るい場所や健全な施設を紹介することだけではないと考えています。
戦後の復興に向けた願いや、文化を通じて街を育てようとした構想を知ることも、その一面に目を向けることにつながります。
名前の由来を知れば、見慣れた繁華街にも新しい意味が見つかるはずです。

 

 

 

参考・引用元
江戸東京博物館「東京都新宿区にある歌舞伎町は歌舞伎座があるわけでもないのに、なぜ歌舞伎町というのか。」
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/library/reference/6323.html
歌舞伎町オフィシャルポータルサイト「歌舞伎町の歴史」
https://www.kabukicho.or.jp/history.php?lang=jp
新宿区「歌舞伎町地区のまちづくり」
https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/keikan01_001083.html